言葉は知性か? マダム・イン・ニューヨーク

今日はマダムインニューヨークをシネスイッチ銀座で見てきた。めちゃくちゃよかった!!!!

主人公のシャシが美しくて…
インドの「古臭い専業主婦」と思われてるシャシは、英語が下手なんだけど、その彼女が一人でニューヨークに来るというお話。そしてニューヨークで彼女は英語を学び始める。

賢く優しく美しいシャシは、一人の人間としての知性や考えを、「英語ができない」に象徴される彼女のあり方(=「古臭いインドの専業主婦」)から、娘や夫に軽んじられている。だからこそ、その表象「英語」を彼女はニューヨークで学ぶことにするわけであって、主題はそこにある。母や妻という枠に押し込まれるシャシが、一人の人間として尊重されるという当たり前のことを、他でもない愛する家族に求めるのである。これは最後のスピーチによく表れている。

一方で私が同じくらい考えさせられたのが、サブテーマである「英語」!

彼女がニューヨークのカフェに一人で入るシーンがある。早口の英語が聞き取れず、言いたいことは言えず、彼女が泣いてしまうシーン。会場では笑いが起こってたんだけど、悲しくて辛くて滴った涙で顎がびしょびしょになるくらい泣いてしまって自分でもびっくりした。

また、こんなシーンもある。英語学校に通うインド人の男性が、あいつらアメリカ人を見返してやりたい、英語ができないというだけで俺をITバカだと思っている、陰で笑われている、とスピーチするのだ。

この二つ…英語の非ネイティブスピーカーなら心当たりがある人が多数派なんじゃないか。英語でなくてもだけど。以前ツイッター上で、非英語圏の外国人と結婚をした女性がこんなことを言っていた。夫や夫の家族の母語を上手く話せないから勉強しているが、まだ下手なので、幼児のような話し方になる。それでたまに彼らにその幼児の口調で大人として意見を言うと、生意気だと思われると。
幼児のような口調で話すことで、周囲から知らぬうちにその考え方までもが高度なものでないはずだと思われる。

知性は言葉でないと表せないのか?あるいは言葉は知性を代表するものなのか?

この映画は、「そうではない」とはっきり述べる。それが、主人公シャシとフランス人ローランの、ヒンディー語とフランス語の会話にも表れる。

しかし、実際の世界ではやはり私たちは言葉で判断しがちだし、されがちだ。どんなに頭がよく、母語でなら口を開いただけで賢いと思われるような、驚くほど知的な話し方をしても、つたない外国語で外国人とやりとりすれば、その外国人からは、せいぜい「かわいい」「面白い」って思われるとのが関の山だろう。


前に、アメリカでは知らない人がいないような有名な黒人のコメディアン・オプラが、スイスのブランド店で、質素な身なりをした黒人ということで高級なバッグを見せてすらもらえなかったと言っていた。これは外見に対するJudgmentalな考えが最悪な差別的行動として表れた例だろう。

それの言語バージョン(実際は外見と混成だろうけど)っていうのもあるのかなって。こんな拙い話し方なんだからバカに決まってるっていうのもまた、そのjudgmentの一種なんじゃないかと思った。

http://zenhabits.net/a-simple-method-to-avoid-being-judgmental-yes-that-means-you/



石田純一の娘として有名なすみれさんは、オバマと同じ高校だったり、カーネギーメロン大学に通ったりしてた才女だけど、芸能活動を始めたばかりの頃は日本語が下手で、特にその学歴エピソードが披露されない番組では、綺麗な「天然キャラ」みたいな扱いを受けてた。それに慣れていただけに、彼女の弟が、彼女はどういう人か?とテレビ番組で聞かれたときに「スマート(賢い)」と答えたのを見てハッとさせられた。

でもこれって、ジャッジメンタルっていうだけの問題じゃなくて、言葉とか、文章で表れるようなものだけを知性だと思うなってことなのかな。


ともかくいい映画だった。非常にオススメ、特に女性に。